2011年10月28日金曜日

幸せの情景

この所、なんだか眠くて、ついつい昼間も寝てしまうことがあるものだから、一日がとても短く感じます。

呑気な生活をしていますが、気持ちは実はあまりのんびりもしていなくて、このところなんだか少し重い感じでした。

先が見えないような停滞しているような…。

おかしいなあと思いつつも、長い間、心に積ってきたものがそろそろまた出たがっている感じだなあと思っていたら、案の定、またしても本当の幸せの概念が、ふっと変わりました。

私たちは、能力やお金や健康や人間関係など、色々なものを持ちたいと思いますね。

それで、私は結構、そういうものに恵まれていた方だったのではないかと思うのです。でも、持っているって、ある意味、とても難しいんです。

難しいというのは、大切なものに気づきにくいし、正直傲慢にもなりやすいです。失くしてしまう恐怖も強くなりますし。

経済的にも恵まれて、健康で、パートナーや子供もいて、良い友人にも恵まれ、仕事もあって…みたいな感じで生活していたら、幸せだろうと思っていたのですが、お金を一生懸命節約している人の気持ちなどわからず、体調が悪い人がどう具合が悪いのかも気づかず、離婚したり恋人と別れた人の気持ちもちっともわからず、仕事を失くした人の絶望感にも気づかず…ということにもなりかねない、というか、私はそんなヤツでした。

…が、少しばかり長く生きてくると、色々体験しますから、痛い思いも沢山してきて、大切なものを失くしてみて初めて、その大切さがわかったり、派手な成功を望んでいたけれど、幸せって結構地味~と気づいたり、できないことが増えてきたら、沢山助けてもらえるようになったり、身体が痛くないだけで、こんなに素晴らしいことなんだと(多少、太かろうが、たるんでいようが…)わかったりしたわけです。

ただ、持っているときより、持っていないときの方が本当の幸せに気づきやすかったなあと思います。

だからって、何かをなくす必要はありませんが、人生うまい具合に色々体験するようにしてありますから、がっくりしたときはチャンスですね。

それで、最近、つらつらとこれまで生きてきて、まずかったなあと思うことを後悔と共に思い出すことが多かったのですが、そんな中でずばり、本当に大切なものは何かというと、

やっぱり愛だろうなあと書くと、わかりにくい気がしますが、簡単に言っちゃうと、大切な人たちとあたたかいご飯を笑いながら食べることのできる生活っていうことですかね。(イエス・キリストも最期に弟子たちと食事をしましたからね)

不安になったり、つらいときも、それを共有したり慰める人がいて、楽しさや喜びも一緒にできる。

朝の連ドラみたいですが、そんな地味~なものかもしれません。

色々恵まれてはいましたが、実は子供の頃、家族揃って笑いながらご飯を食べるということは、あまりなかったのです。

だから、今日私が打ち上げた願望は、私のパートナーと娘たちのそれぞれのパートナーが皆揃って、私たちが作った食事を皆で笑いながら食べる図というものです。

少し前までは、そういう光景を考えたこともなかったので、これはなかなかいいぞと思いまして、気持ちも軽くなりました。

なんとなく予感というものってありませんか。その感覚からいうと、いつかそんな日が本当に来る気がするのです。

とても地味でささやかですが、ここ何年も幸せについて追求してきた私としては、なかなか良い情景ではないかと思うのです。

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